正直に申し上げます。私には、あなたが再び誰かと出会うべき時期を、カレンダーで指し示す資格はありません。専門家にも、ご家族にも、ましてや隣のご近所さんにもそんな権利はないのです。それでも、人は問います。「一年では早すぎますか」「三年たちましたが、まだ罪悪感があります」と。
東京・本郷のカフェで、六十三歳の女性がそう打ち明けてくれたのは、先月のことでした。ご主人を亡くされて二度目の冬。ご長男からは「お母さん、そろそろ」と背中を押され、ご長女からは「まだ早い」と釘を刺されていたそうです。
世間が言う「適切な期間」は、誰のためのものか
「喪が明けるまで一年」という言葉は、もともと祭祀のための区切りでした。あなたの心の区切りではありません。一年で再び誰かを思える方もいれば、五年たっても写真の前で手が止まる方もいます。どちらも正常です。
問題は、周囲の視線が早く動きすぎたり、逆に遅く止まったりすることです。世間は、あなたの悲しみの質を知りません。四十年連れ添った相手を失った方と、晩年に再婚された方では、時間の流れ方がまったく違うのです。
三つの小さな目印
カレンダーではなく、ご自身の内側に目印を置いてみてください。
- 亡き方の話を、涙なしで十分間できる。愛情が薄れたのではありません。物語として、穏やかに語れるようになったということです。
- 朝、目が覚めて最初に考えるのが、亡き方のことではなくなっている。これは裏切りではなく、ご自身の生命が戻ってきたしるしです。
- 他の方の幸せそうな姿を見て、素直に「いいな」と思える。羨ましさではなく、肯定の感情が出てきたかどうかです。
三つすべてが揃わなくても構いません。ただ、一つも揃わない時期に無理にお見合いの席に出ても、ご自身もお相手もお疲れになるだけです。
「罪悪感」という名の、ためらい
麻布十番で三年前に奥様を亡くされた六十八歳の方が、こうおっしゃいました。「妻が許してくれるかどうかではなく、私が自分を許せるかどうかなんですよ」と。
この言葉は、真実に近いと思います。亡き方の多くは、遺された方の寂しさを望んではいらっしゃいません。むしろ「もう十分だから、あなたは歩いてほしい」と願っていらっしゃるでしょう。問題は、ご自身が「まだ申し訳ない」と感じる、その柔らかい部分です。
罪悪感は、消そうとすると逆に残ります。共存させてください。「申し訳なさを抱えたまま、それでも私は生きる」と決めてよいのです。
成人したお子さまの声に、どう向き合うか
「お母さん、お父さんのことを忘れるの?」と詰め寄られたという方のお話も、よく伺います。お子さまはお子さまで、亡き親を守りたいのです。
ここで急いで説得する必要はありません。「忘れるのではないの。別の物語を書き加えるだけ」と、一度だけお伝えすればよいのです。あとは時間が、お子さまの側にも理解を運んでくれます。急いで新しい方を紹介しない、写真を急に片付けない、記念日を忘れない。この三つを守っていれば、関係はやがて落ち着きます。
「もう遅い」と思ってしまう日に
白金台にお住まいの七十一歳の女性は、ご主人を亡くして五年たってから、地域の俳句の会で新しい方と出会われました。「もう自分は恋愛の対象ではないと思っていたの」と、少し恥ずかしそうに笑われました。
五十代、六十代、七十代で再び誰かと出会うことは、決して珍しいことではなくなっています。同じように連れ合いを失った方、離婚された方、ずっと独身だった方。みな、人生の後半に、静かな伴走者を探しています。遅すぎるということはありません。遅いと決めつけるのは、世間ではなく、いつもご自身なのです。
最初の小さな一歩
いきなり出会いの場に出る必要はありません。まずは「自分は再び誰かを思ってよい」と、心の中でそっと許可を出すことから始めてみてください。
そのうえで、来月のご予定に、少しだけ人の集まる場所を一つ入れてみる。鎌倉の美術館、神楽坂の朗読会、近所の写真教室。結果を期待せず、ただ「動いている自分」に慣れていくのです。
カレンダーは、あなたのためにあります。逆ではありません。